子安地蔵菩薩縁起
旧記の伝える縁起によれば弘法大師(774~835)が四国行脚の旅すがら宇和島市の祝森柿ノ木に厚く神仏を信仰していた二人の兄弟の噂を耳にせられ旅僧の装いのまま一夜の宿を乞われました。兄弟は快く応じ厚く待遇いたしました。大師は信順素直さに報いんと自ら二体の石仏像を彫作して授与されました。兄弟はこの縁に深く感動して兄は地蔵さまを松ヶ鼻に、弟は青面金剛さまを松尾坂の麓に祠を営み信仰供養をしておりました。次第に兄弟の家は栄えましたが、時は流れ乱世になってからは祠は荒れ果て石像の本尊は自然に地下に埋もれてしまい、さらに幾百年の歳月が経ちました。
延宝五年(1677)三月頃、深田の庄屋河野の祖先に河野勘兵衛通行という人がおりました。通行は文芸武芸に優れ幾度かの戦功により名を遂げて祝森に老後悠々自適の日々を送っておりました。ある日たまたま一瓢(お酒)携えて杖を曳いて松ヶ鼻の山中に入り、趣くまま石を枕にすやすやと眠りに入りました。すると夢の中に一人の旅僧が現れ、
「我は地蔵菩薩なり。この山の半服にある大樹の下に地中深く埋まって久しい。今再びこの村に出現して群生を救済せむ。地中を掘り起こし我を堂内に安置せよ。若し人有って我の名を称し供養せば、もろもろの災禍消除せむ。婦人に我を信仰するものあれば産生安泰ならしむ。我汝が素直でまじめであることを知り汝に告ぐ。」と忽然として去ってしまい、同時に通行の夢も覚めてしまいました。
不思議な夢を見たと深く心にも留めずおりましたが、次の夜も次の夜も同じ夢告を受け、「これはただ事ではない。地蔵菩薩が私に掘り出すように命じられているに違いない。」こう信じて下男を連れて山中に入りお告げの場所を掘り始めました。するとついに地下八尺ほど掘り下げたところで、まさに夢の通り地蔵菩薩が出てきました。通行は感極まりこの地にお堂を建て地蔵菩薩をお祭りされました。
さらに弟が信仰していた青面金剛も夢告を受け通行が掘り起こし、松尾坂の麓の地にお堂を建てお祭りされました。
以来、特に松ヶ鼻のお地蔵さまは子安の地蔵菩薩として親しまれ、宇和島藩の伊達家にも安産祈願所としてその都度、老女が御代拝をされておりました。
『感得霊夢記』より(普門寺所蔵)
原記より抜粋要約してあります。